相撲の今後

大相撲についての論議がかまびすしいですけど,八百長を糾弾するマスコミの姿勢ははたしてほんとうに正しいのでしょうか.ここで,むかし読んだ本の一節を引いておきます.

思えば私もずいぶん昔から相撲を見たもので、 梅・常陸の時代から父に連れられて、 よく見に行きました。[中略]この横綱梅ケ谷関はあまり勝ったことがありません。といって負けたこともありません。こういうと今のお方には「そんなバカなことがあるか」と思われるでしょうが、 それがあるのです。十日の相撲のうち八日間ぐらいは引き分けばかりで、 あとの二日は勝つ、 といった調子で、 今のように勝負をはっきりつけるまで取らせるということはなく、 立ち上がって相四つになるか、 または手四つになり、 そのまま動かず水入り後「双方取り疲れましたれば、 この勝負引き分け」と行司がいって打ち出しになるのです。横綱ともなれば、 相手も負かさず、 自分も負けない、 というのが立派な力士だったわけです。しかし、 これも今では通用しなくなりました。

片岡仁左衛門『嵯峨談語』(三月書房,昭和五十一年六月),pp. 80-81

仁左衛門丈は「今では通用しなくなりました」と書いておられますが,わたくしたちが意識を変えればいいのではないでしょうか.そうしてむかしに戻して,「横綱ともなれば、 相手も負かさず、 自分も負けない、 というのが立派な力士だったわけです」という評価基準を導入するならば,現在の八百長問題などは雲散霧消して,すべてがうまくおさまるはずです.つまり,相撲の今後は,ふたつの選択肢しかないのではないかと,おもわれるのです.ひとつは,マスコミが主張するように,相撲を純然たるスポーツとすることです.もうひとつは,相撲を綜合的なエンターテインメントとすることです.後者には,じつにさまざまな面が期待できます.江戸のひとびとが舶来の象やラクダを驚嘆してながめたように,力士たちの肉体をながめるだけでも,見世物としてのたのしみを味わうことができるでしょう.化粧まわしに彩られた力士たちの入場はファッションショーですね.土俵入りとか四股ふみといった独特の立ち居振る舞いや,行司の扮装や,呼び出しのイントネーションなど,ほかでは見聞きできない貴重な要素を相撲はもっています.土俵上での勝負という,スポーツ的な面もあります.歌舞伎開演中の客席での飲食が白い目で見られるようなご時世にあっても,相撲が場内での飲食をもふくむ綜合的なエンターテインメントとしての形態をつらぬくならば,その未来はけっして暗くはない,と,おもわれます.
なお,週刊誌などがうんぬんする八百長ですけど,相撲協会はこれを否定したりせず(ましてや告訴したりなどせず),たとえば,「『週刊現代』は八百長を指摘されましたけど,これは不自然あるいは無気力な取り組みがあったという批判と受けとめましたので,今後はそんな批判をはねかえすべく,迫真の試合をおこなったかのようにみせかけるようつとめますのでご贔屓のみなさまがたのご声援をお願い申しあげます」とでも声明すればいいのではないかと,おもいます.
さきにあげた選択肢のひとつ,「相撲を純然たるスポーツとすること」についてもわたくしの見解を書いておきます.八百長の入りこまない試合は,のぞましいのかもしれませんけど,はたしてそれがおもしろいか,というと,否定的にならざるをえません.スポーツとしての相撲は,現在の相撲がもっているもろもろの要素を切り捨てなくてはならないはずです.塩をまいたりせず,仕切りなおしもなく,行司の合図でただちに取りくむ,つまりプロレスやキックボクシングなどとおなじ格闘技で,どこが違うかといえば,相撲の技しか使ってはいけない,というだけのことです.こんなのが,はたして受けいれられるのでしょうか.そして,八百長を糾弾するマスメディアはこういうことを想定しているのでしょうか.