相当にカゲキな本

田中克彦『漢字が日本語をほろぼす』(角川SSC新書 126,角川マーケティング角川グループパブリッシング,2011年 5月)を読みました.
著者の専門は社会言語学とモンゴル学で,「日本語にかぎって書くのははじめて」だそうです.標題にしるしたように,そしてなにより本書のタイトルが語っているとおり,カゲキな主張に満ちています.冒頭にちかいあたりのつぎの記述などにその筆鋒のするどさを見てとることができるでしょう.

困ったことに日本人は、 時代が危機にたっていると感じると、 やたらに漢字をふやしたり、 敬語などのことば使いをきびしく見張って、 ことばのむつかしさで武装する。そうすれば気分が引きしまってしゃんとすると思っているところがあるらしい。つまり、 漢字語は日本では軍人や役人たちが人民の目をくらまして戦争にさそい込んだり、 事実をごまかそうとする時に大いに愛用されるのみならず、 また学者や知識人までもが、 自分の学問の弱さをかくすためにそれに手を出してしまう要注意の文字だ。(p. 17)

こういう見解はこのあとにもいっぱい出てきますが,やたらと漢字を非難・攻撃するのではなく,さまざまな角度から漢字の性質を考察している点に,本書の特色があるかと,おもわれます.シニフィアンシニフィエといった言語学の知見をもちいたり,著者の個人的な体験を語ったり,現代中国の略字体にふれたり,朝鮮のハングルやモンゴル語を引きあいに出したりと,多彩・多様なアプローチがなされています.著者の主張のうち,重要であるとわたくしがおもった部分をもうひとつ,引いておきます.

日本語は十世紀頃、 漢字から、 オト表記のためのかな文字を作った。そして、 女たちはかな文字だけで書く文学を発展させることによって、 日本語を見事に自立させたのである。/ところが出世主義者の男たちは政治と学問を一人じめするために漢字を手放さなかったのみならず、 いよいよ、 さらにこみ入った使いかたを考え出し、 自らの地位の確保のために利用したのである。かれらのせいで日本語は、 漢字のしばりから離れて真に自立した日本語の書きことばを確立するチャンスを失ってしまったのである。(p. 166)

なお,本書の主張とはべつに,気になったことを書いておきます.主語と述語とが相応しない破格な文がいくつかあるのです.たとえば,

正しい道は、 文字というこの必要悪を通して、 日本語の語源の道へと、 文字を、 いつも声になおしながらことばを作ってきた人々のこころのはたらきを思わなくてはならない。(p. 103)

用語の統一をあえてしない,と「あとがき」で述べておられるので,わざとこうした文体をもちいたのかもしれませんけど,やや雑な文章だという印象をもってしまいます.