すげえ人物へのすごい好奇心

鹿島 茂『蕩尽王、 パリをゆく 薩摩治郎八伝』(新潮選書,新潮社,2011年11月)を読みました.治郎八にかんする評伝としては本書の「あとがき」にも記されているように,村上紀史郎氏のものと小林 茂氏のものがすでにあります(*)が,アプローチのしかたとか目の付けどころにそれぞれちがいがあり,したがって治郎八という人物像の造形と評価にも差が出てきています.なにより,治郎八が書いたり語ったりしたことにかなりの記憶ちがいや錯誤があって,事実関係を正確にたどることがむずかしい(らしい)のですね.くわえて,「伝説」をおもしろがる世間の評判やうわさが話をふくれあがらせ,当人もそれをあえて否定しなかったために,ますます「伝説」が肥大化していくことになります.今回の鹿島氏の新著をはじめ,小林氏・村上氏の著作はいずれも「伝説」のヴェールを剥ぎとっていわば「実像」にせまることを目指していますけど,それでも,いろいろとちがいがあるのが,おもしろいところです.とくに問題視されてきたのがアラビアのロレンスとの邂逅と外人部隊への入隊ですが,ほかに,治郎八の結婚披露宴へのクローデルの出席についても,村上氏と鹿島氏はこれを事実とし,小林氏は「治郎八自身は、 どこにも書いていないようである。クローデルの日記にも記載はない。実はこの三月十三日は、 日仏会館は忙しかった。[中略]クローデルの披露宴出席は無理だったのではあるまいか。[中略]わからないこととしておかなくてはならない」(『薩摩治郎八』p. 220)と,慎重な姿勢をしめしておられます.いっぽう,鹿島氏は「治郎八の著作や談話を数限りなく読んできた印象からいうと、 治郎八には誇張癖や時空間の混同癖はあったかもしれないが、 虚言癖があったとはどうしても思えないのである。つまり、 なかったことをあったと捏造し、 会っていない人と会ったと言い張るような「創作的な虚言癖」は治郎八にはなかったと見た方がいい。ロレンスとの邂逅にしろ外人部隊入隊にしろ、 あるいはパリやカンヌ、 ニースでの豪遊にしろ、 真実の数倍の誇張はあったにしろ、 証言の核の部分では嘘は言っていないという印象を受けるのだ」(pp. 336-337)と,多分に同情的な書きかたをされています.ここまでくると,これらは著者の執筆態度の問題に帰着しますので,どちらがただしいのかという「事実」をうんぬんすることはすでに無意味なのかもしれません.鹿島氏の記述のうち,とくにわたくしの印象にのこった箇所を引いておきます,

薩摩治郎八の生涯を概観して、 一番、 私が偉大だと思うのは、 じつは、 パリでの豪遊でもなく、 また日本館の建設でもなく、 この第二次大戦が始まってからのフランスへの「帰国」である。なぜなら、 豪遊も日本館建設も、 治郎八と同じくらいあるいはそれ以上に資産のある人間がいればかならずしも不可能ではないが、 ドイツと開戦したばかりのフランスにあえて戻るという「暴挙」は金ではなく「愛」がなければ絶対にできない相談だからである。それは、 フランス大好き、 自分はフランスと結婚したとまで言い切っていたフランスかぶれの連中が大使館の勧告を受けて帰国船に乗ったのとはあまりに対照的であった。
(p. 322)

(*)村上紀史郎『「バロン・サツマ」と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代』(藤原書店,2009年 2月)
小林 茂『薩摩治郎八 パリ日本館こそわがいのち』(ミネルヴァ書房,2010年10月)