さすが中国はスケールがちがう(またはわたくしの勝手な連想)

中国の「労働教養所」における暴行の実態をあらわにする文書が公表されたという朝日新聞の記事(5月8日朝刊)からおもいだして,秋乃茉莉『傀儡華遊戯 〜チャイニーズ・コッペリア 3』(ぶんか社,2013年 4月)をざっと再読しました.巻末に付された「原典のあらすじ」のうち「来俊臣」にかんする記述を挙げます.来は則天武后のもとで「刑事被告人を取り調べる役職に抜擢され、残酷な拷問法を次々編み出して」いった人物だそうです.

鼻に酢を流し込む、耳に泥をつめて燻す、くさび付の枷で頭蓋骨を締め付けるほか、汚物があふれる牢屋に囚人を入れて全身を腐らせたり、絶食や不眠で尋問を繰り返すなど、あらゆる拷問で無実の者に自白を強要。(p. 157)

すごいですね.さすが中国はスケールがちがいます.徳川時代の牢獄もずいぶん悲惨だったようですけど,これほどではないでしょう.なお,夷齋先生の「「中国の孝道」を読む」という文章(*)をおもいだしたので,これもななめ読みしました.「桑原隲蔵博士の遺著に「中国の孝道」といふものがあることを、わたくしは遅れて近年の刊本に依つて知つた」と書きはじめられ,本の内容を紹介しつつ論評していますが,「孝」を称揚する一方に「唐山では不孝を罰すること歴朝すこぶる厳であつた」という面があり,「清の同治年中、ある士人が妻とともに母を笞で打つたとき、勅命に依つて夫婦は剥皮の刑に処せられたさうである」という例をあげ,後半でつぎのように書いておられます.

ところで、「中国の孝道」の中でわたくしがもつとも読むに堪へた部分はかの厳刑についてのくだりであつた。このくだりは・・・何といはう。すでに遠いむかしの話柄なのだから、妥当なるべきことばをさがすにもおよぶまい。わたくしはおもしろかつた。孝悌の道を看板に、気に入らないやつをばつさり、ときにはじわじわと責め殺して、人間はかうまで残酷でありうるといふ実例を示しながら、もつて名教を正す所以と、天下に呼号した気合はなみなみでない。人倫から人外に、慈愛から暴虐に、急転直下、なにがなにとも知れないほど、おほつぴらにやつつけたのは、水ぎは立つた手ぎはである。これだからシナさんは油断がならない。むかしから、すげえ役者がそろつてゐたやうである。ただし、今日のことはわたくしの知るかぎりでない。

ここでさらに,わたくしの気ままな連想をほしいままにさせてもらいますが,事実を直視することについての祈りにも似た切実なおもいと,事実を隠蔽しようとするものへの怒りを表明した感動的なセリフを引いておきます.

神さま
僕はもう/地獄に堕ちてもいい
もう人間でなくなってもいい/何百回生まれ変わっても/ずっと地を這う蛆虫でいい
だから
おねがいします/おねがいします
どうか/僕の脳を「見て」下さい/ちゃんと「見て」下さい
[中略]世界中の人達に/僕の見た「画」を
どうか

清水玲子『秘密 トップシークレット 12』(白泉社,2012年11月),pp. 35-38.
この「「見て」下さい」というセリフから,武田泰淳の「ひかりごけ」のラストも連想したのですが,あまりにくどくなるので引用はひかえておきます.
*石川淳『夷齋小識』(中央公論社,昭和四十六年五月)に収録(pp. 145-157).初出は『図書』昭和四十三年二月号とのこと.原文の漢字は正字ですが,ここでは現行の字体にしました.なお,引用文中「このくだりは・・・何といはう。」の三点リーダーは引用者によるものではなく,原文にあるものです.