まったくべつの歴史像

井上章一(編)『性欲の研究 エロティック・アジア』(平凡社,2013年 5月)を読みました.『性の用語集』(講談社現代新書,二〇〇四年一二月)や『性欲の文化史 1,2』(講談社選書メチエ,二〇〇八年一〇月,一一月)などにつづく研究成果が刊行されたことを,まずはお慶びします.例によっての多彩な(スケベな)話題が楽しいですね.内容について,わたくしがあれこれいうまでもないでしょう.とにかくおもしろいので,この手のはなしに興味のある方には,ぜひ読んでくださいというばかりです.ところで,本の内容とは別に,気になったところがあるので記しておきます.冒頭の「巻頭言」で井上氏は二〇一二年の秋に中国各地で起きた反日デモにふれ,「釣魚島はわれわれのもの、蒼井そらはみんなのもの」というメッセージがあったことを紹介されています.「蒼井そら」とは「日本のアダルトビデオで活躍する女優」で,「中国の男たちにも、よく知られている。人気もある」のだそうです.そしてさらに「一九五〇年代末に、日本人の反米感情が高揚したこと」と,その一方で「アメリカの帝国主義を批判した当人が[・・・]マリリン・モンローにときめいていたり[・・・]キンパツのストリップで、よろこんでいたこと」を指摘し,つぎのように述べておられます.

われわれは、しばしば時代の波にながされる。歴史の大きな流れに翻弄されることがある。しかし、性的な想いにかぎれば、その奔流にのみこまれないことも、ないわけではない。そして、そこへ目をむければ、一般的な歴史とはちがう、まったくべつの歴史像もうかびあがってくるのではないか。(pp.8-9)

これはたしかにすぐれた着眼で,そこからこの本のような成果が生まれているのですから,わたくしがケチをつけるつもりはないのですけど,しかし,中国と日本との「差異」も考慮すべきではないかと,かんがえます.「一九五〇年代末に」「ヤンキー ゴーホーム」を叫んだひとたちが(こころのうちではおもっていたにせよ)プラカードに「マリリン・モンロー ウェルカム」と併記することは,おそらくなかったし,現在および将来もありえないのではないでしょうか.ここからうかがえるのは,<公>と<私>を区別し,<本音>と<建前>を二重写しに見ようとする日本人の感性です.「釣魚島はわれわれのもの」というメッセージと「蒼井そらはみんなのもの」というメッセージを併記する中国人の感性とはあきらかにちがいます.おおらかというか,ケジメがないというか,多元的というのか,中国人のこうした言動をどう評価すべきなのか,わたくしにはわかりかねますけど,一筋縄ではいかない民族であることは,たしかでしょう.なお,小田 空氏は「反日デモでも語ってみようか」というエッセイマンガ(*)で「中国には「時差」がある」「政治にしろ経済にしろ あの大きな「龍」は 頭が角を曲がり終えた時 同時に前足が 後足が 同じ角を曲がり終える ワケではないのだ」「点で見ている限り 中国は見えてこない」と書かれています.この説明がどれほどの正鵠を射ているのか,やはりわたくしにはわかりませんけど,聴くべき見解ではないでしょうか.
*)小田空『北京いかがですか?』(創美社集英社,2008年 6月)に収録.pp. 95-104.