特異な観点からの特異な指摘

3週間以上もプログの更新をおこたってしまいましたが,いったんついたナマケ癖を払拭するのはたいそうむずかしく,よほどのキッカケがないと,再開にふみきれません.が,これはやはり取りあげたほうがいいんではないかとおもう本にめぐりあえましたので,紹介します.田中克彦従軍慰安婦靖国神社 言語学者の随想』(KADOKAWA,2014年 8月)です.「まえがき」の冒頭で「ぼくがこんなふうな本を書くなんてがらでもない――と、まず自分自身で思うだけでなく、ぼくをいくらかでも知っている人たちはみなそう思うだろう。/まずぼくは従軍慰安婦のことを、資料を読んだりして調べたことは一度もなく、靖国神社の由来や来歴などを書いた研究書がいくつも出ているのを知っているが、それらの一冊も読んだことはない。(p. 2)」と書かれているように,ふつうに従軍慰安婦靖国神社の問題に取り組んだものではなさそうです.サブタイトルにあるとおり「一言語学者」として,さまざまな角度から,ご自身の体験も折りこみつつ,このテーマに迫っています.賛意を表しがたい部分もありますけど,するどい見解が示されてもいます.「まえがき」の中のつぎの記述なんかも,そのひとつといえるでしょう.

戦犯がまつってあるからいけないって? 何を言っているんだ。日本では人が死んだら戦犯も何もそんな差別はなくなるんだ。それに戦犯も非戦犯も紙一重、ぼくだって、子どもだったけれど、本土決戦で最後まで戦おうと思っていたから、自分も戦犯ではないとは言いきれない。もし日本人自身が裁いて東條さんたちを戦犯にして、しばり首にしたのだったら、東條さんはまごうことなき戦犯だ。/しかしそうじゃない。勝者に判決と処刑をまかせておいて、あいつは有罪で戦犯だが自分は非戦犯だと、平然としていられるのは、少なくともあまり美しい態度とは言えない。(pp. 4-5)

「人が死んだら戦犯も何もそんな差別はなくなる」というあたりは日本以外の国々にはとうてい受けいれられないでしょうが,後半部分は現代日本の病根を抉りだす,すぐれた指摘であり告発であるといえます.さて,本文では前半の「第一部」で従軍慰安婦のことをあつかっています.著者のユニークな指摘を引いておきます.

なぜ日本軍だけが慰安婦を必要としたかという、諸外国からの質問にぼくはこう答える。/オトコがオンナを求めたい気持が、日本人も諸外国人も、人種のちがいをこえて差がないとするならば、日本のオトコにかぎって、オンナに言い寄り、「させてください」と頼み、相手もしたくなるようにさそう教養と技術に欠けていたからだと。/[中略]じつはオトコもオンナも、全人類史を通じて、生物的なオスとメスとして相手を獲得すべく、競争のはげしいマーケットに置かれているのである。/[中略]しかし日本の社会は、とりわけかつての日本のような軍事社会は、子どもたちがなるべく自立せず、何でも上の言うことを聞いて盲従する、ひたすら忠良な兵士として育てることを求めてきたのだ。社会も親も学校も、子どもが国や――いまでは会社――の言うことを何でも上の言うとおりに、無批判に命令に服従することは教えてきたが、生物として最も大切な、オス・メスがたがいに相手を手に入れる技術は教えなかったのである。(pp. 47-49)

ほかに,「韓国人の日本憎悪の気持がいかばかりかを知る」という項で,三十年ほど前に一橋大学大学院で著者のゼミに参加した韓国人女性が述べたことばを載せているのが,すごいです.

「私は、原爆がたった二発だったことが残念でなりません。たった二発だなんて。五十発でもまだ足りないくらい。六十発くらいは落としてほしかった」(p. 66)

すさまじい憎悪に満ちた発言ですけど,この発言の背後に <旧日本軍の行為>があったことは,忘れてはならないでしょう.こうした憎悪は現代にも生きており,従軍慰安婦の像をあちこちに建立する運動となって展開しています.この慰安婦像について著者は

この像が、戦争の悲劇を一般化して後世に伝えるというのではなく、日本という特定の敵*)に向けて建てられたことによって、行為は哀悼というココロの問題からはずれてしまい、つまり、自分自身のためというよりは、敵への憎しみとうらみを強調するために、いわば日本へのあてつけとして設けられたことが、内化されるべき哀悼の気持を単に外化したのみならず、政治化したために、人の心をうつ力は弱められてしまう結果となった。(p. 58)

と評しています.そしてこのすこしあとで,二宮金次郎像と比較して,つぎのように述べます.

二宮金次郎の像を子どもたちが見て、そうだ、どんなにつらくても金次郎のように、かたときもむだにしないで、わたしもがんばって勉強しようと思わせるつもりで建てた金次郎像と、朝鮮のオンナたちをこんなふうにした、日本人を憎み、怨めと、朝も夕も、子どもたちに訴えつづける像のいずれがこころよく、ポジティブかということは、あらためて考える必要もない。/[中略]しかし一歩さがって考えてみると、韓国の人たちが、こういうつらい像を建てざるを得ないようにしているのが、日本政府の態度であるかもしれない。「慰安婦など存在しなかった」というのが、日本を代表する識者たちの一般的な態度である。(pp. 64-65)

銅像というものの受けいれ方,とらえ方は国や民族によるちがいがあるかもしれませんけど,この見解はやはり聴くべきでしょう.後半の「第二部」では靖国神社を考察の対象としています.こちらは従軍慰安婦の問題よりさらにやっかいで,「日本文化の根幹そのものにかかわっている(p. 90)」と書かれているように,<論理> だけではすまされない部分があります.なかで,<歴史> に関する著者のかなりシニカルな意見をあげておきます.

歴史を書く必要があったのは、王様や殿様などの権力者が、自らの権力の由来を説き、その正統性を主張するために、学者たちに書かせたものが大部分である。[中略]ところでその学者たちは、たいてい、歴史を書かせる殿様などに養われているから、歴史書の注文主のきげんを悪くするようなことは書かない。(pp. 128-129)

こうした(いわば正統的な)<歴史> とはことなるものとして,著者は「民衆知」という概念をあげておられます.

この一般大衆は専門的な知識は持たないとはいえ、じつはある種の知識を持っている。この専門的ではない、知識、いわばカンのようなものは、ほとんど意識の下にかくれている知識である。この知識は歴史の裏づけがないのに一般人はこの意識下の知識によって、行動し、判断している。(p. 133)

この民衆の <知> をどう評価し,どう判断するかは,かなりむずかしい問題で,著者も断定をひかえているようですが,やはり,なおざりにしてはならないことでしょう.さいごにもう一箇所,安倍総理大臣の靖国参拝にふれた部分を引いておきます.

安倍さんは、「さきの大戦でぎせいになった英霊に尊崇の念を表わし・・・・・・」と言っていることばそのものにはウソはなく、また特別に変わったところもなく、当然のことばである。しかし、政治家は個人のココロなんかをむき出しに言うはずがなく、さまざまな利害を計算してものを言う。[中略]中国や韓国の政治家の行動だって、それらが、ウソの気配など一片もないどころか、真実をさがす方が困難なことは、我が日本の安倍さんにまったくひけを取らないであろう。(p. 157)

*)イタリック体は原文では傍点.