『怖い絵』文庫化

中野京子『怖い絵 泣く女篇』(角川文庫,角川書店角川グループパブリッシング,平成二十三年七月)を読みました.「『怖い絵 2』に加筆訂正し、 新たに二作を書き加えて文庫化したものです」との注記があります.「泣く女篇」と銘うっているのは,親本では2番目に掲載していたピカソの「泣く女」をさいごにまわして,いわば全体のまとめとしているためでしょう.なお,今回の文庫はドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を冒頭に置いています.各章の配列も,親本とはずいぶんちがいがあります.作品間の関連に留意しているのでしょうか(「サロメ」のつぎに「ホロフェルネスの遺体発見」をもってくるとか(笑)).もっとも,そうした連想とか時代順はさておき,本書をつらぬいているのは,作品に描かれている<内容>にまず注目し,そこから問題点を抽出して探究につきすすむ著者の姿勢と手際のあざやかさです.これには,まったくほれぼれさせられる,というほかありません.美術史の知見によりつつ,独自の感性による記述が出てくるあたりもすばらしいです.「泣く女」の章で,菊池寛の「藤十郎の恋」を引いているのは,(3年まえに親本を読んでいるのに),すっかりわすれていました.こういうのはほかにもあるのではないかと,おもわれます.おりにふれ,再読したいものです(その都度,あらたな発見があることでしょう).
ところで,今回の文庫に加えられた「二作」とは,ドレイパーの『オデュッセウスとセイレーン』とメーヘレンの『エマオの晩餐』です.ドレイパーの作品は2003年 7月に東京藝術大学 大学美術館の《ヴィクトリアン・ヌード》で見ました.当時買った『芸術新潮 6月号』に「船にまで乗りこんで誘惑するなんてホメロスの原作にはひとことも書かれてないけれど、 うーむ、 たしかにこのほうがセイレーンの魅力はひしひしと伝わってくる」とあるとおりの,わすれがたい作品です.もうひとつのメーヘレンの作はフェルメールの贋作として有名になったものですね.専門家をもだました事件についての,中野氏の記述は美術だけでなく<学問>についてもきわめてするどい批判となっていますので,ややながくなりますけれども,引いておきます.

大御所の一言で右へ倣えする専門家集団というものがあり、 それを無批判に受け入れるジャーナリズムがあり、 さらにはお偉い人間の言うことなら何でも盲信する買い手や大勢の鑑賞者がいて、 贋作ビジネスは成り立っている。今でも問題点が解決されていないのは、 美術界の閉鎖性を見ればわかる。ごく狭い研究対象を自分のテリトリーとして抱え込み、 他分野からの研究者に対しては不法侵入ででもあるかのように騒ぎたてて排除する。小さなテリトリーが乱立し、 必然的にその道の権威者も乱立して、 互いに批判しあわない。マスコミはこの分野ならこの人と決め(たぶんめんどうがないからだろう)、 その話題が出るたびその「権威者」が担ぎ出され、 同じ解説ばかりが一般に流されるので、 本人が死ぬまで異論は聞こえてこない。
学者は真理を求めて研究一筋の純粋な人間、 との思い込みもそろそろ捨てた方がいい。一握りをのぞいて学者もまた、 人並みの(むしろそれ以上の)自己顕示欲と功名心に囚われている。でなければ、 こうもマスコミ受けする新説が出続けるはずがない。
(pp. 234-235)

たいそう辛辣ですね.なお,この章のおわりちかくで,ロッテルダムの美術館に『エマオの晩餐』がメーヘレンの名前とともに飾られていることを記したあと,中野氏はつぎのように書かれています.これは,さきの引用にもまさって,<美術>を<鑑賞>するわたくしたちへのてきびしい批判だといえるでしょう.

この絵を前にすると、 恐ろしい問いかけがなされているのを感じる。果たして我々は絵それ自体を見ているのか、 それとも有名画家の名前に納得しているだけなのか・・・・・・。
(p. 236)