目の付けどころがなんとも・・・

木下直之股間若衆 男の裸は芸術か』(新潮社,2012年 3月)を読みました.『芸術新潮』に掲載した「股間若衆」と「新股間若衆」に,描き下ろしの「股間漏洩集」と「股間巡礼」を加えた四部構成になっています.「平成二十年五月二日」に赤羽駅前に立つ川崎普照 ≪未来への讃歌≫というブロンズ像(?)に出会ったのがそもそもの発端だったそうです.「このふたりの青年は芸術作品である。日本藝術院会員が作者だから間違いない。/赤羽にやって来る前、ふたりは平成五年(一九九三)に東京都美術館で開かれた第二十五回日展、すなわち日本美術展覧会に出品され、内閣総理大臣賞を受賞したというから美術品でもある」(p. 6)と書かれているように,「芸術」にちがいないのですが,しかしこんなもの(全裸の男性)をひとまえに出していいものなのか.「もしもふたりが彫刻ではなく生身の青年であったらどうなるだろうか。[中略]警官が駆けつけて、駅前交番へとしょっぴかれるに違いない」(ibid.)と木下氏が書かれているとおり,猥褻物陳列罪の対象となる要素があります.しかし,この ≪未来への讃歌≫の場合は,「ふたりは股間に何もぶら下げていない」んですね.男性の全裸像でありながら,性器がリアルに示されてはいないのだそうで,これを木下氏は「曖昧模っ糊り」と名付けています.なんとも絶妙なネーミングです(笑).こうしたものへの興味から,木下氏は日本全国の彫像たちへの探索を開始され,その結果が本書となったのですが,たんにおもしろがるだけでなく,さすが学者であるだけに,幕末・明治初期にさかのぼっての実証的な考察にむかっています.先進の西洋文明をとりいれようとした「文明開化」の時代に,「工部美術学校のイタリア人教師ラグーザが[中略]教材として携えてきたと思われる」「古代彫刻の石膏像」(p. 23)あたりがこうした裸体像のいわば元祖だったようです.それが教材として利用されるだけなら問題はなかったでしょうけど,一般に公開するとなると,いろいろと物議を醸して,社会的な事件になってしまいます.「文明開化」を推しすすめようとした明治政府と,いっぽうでハダカを取り締まった官憲と,西洋美術をこころざした人々と,さらに一般民衆をふくんでのてんやわんやのやりとりはなんともおもしろいドラマを繰りひろげてくれます.また,時代が進むにつれてひとびとの意識も変化します.が,今でもロコツな表現はためらわれるようで,冒頭にあげた ≪未来への讃歌≫について,「おそらく、これは長い歳月をかけて、日本の彫刻家が身につけた表現であり、智慧であった」(p. 7)と,木下氏は書かれています.衣服や葉っぱなどで隠すというやり方もありますけど,「曖昧模っ糊り」型が多いのは,人体のリアルな表現を目指す作家の意志と世間への配慮との妥協の産物なのでしょうか.
つづく「第二章」では彫刻ばかりでなく写真をとりあげています.ここでも現代からさかのぼって,三島由紀夫がモデルをつとめた『薔薇刑』(1963年)にふれたあと,明治時代の飛脚の写真にまでおよんでいます.刺青をほどこした男たちにはエキゾチックな魅力があったのでしょうか,外人向けに売られた写真のようですが,「普通のおじさんが裸になって恥じないのは祭りの日である」(p. 60)との指摘にあるように,ここには明治の雰囲気を見るべきなのかもしれません.その意味では,ヤラセにちかい面があるらしいとはいえ,「時代」を示す貴重な資料といえます.さらにすすんで「第三章」は,「こぼれ落ちた問題の数々」とのサブタイトルのとおり,裸体彫刻に関連するさまざまな事件・話題をとりあげています.明治三十四年の「腰巻き事件」や黒田清輝の「朝妝」や,戦後の「額縁ショー」,そして男性同性愛者のための雑誌「薔薇族」「ADONIS」まで論じておられます.木下氏の旺盛な好奇心と,多種・多量の文献を渉猟される執念(?)には圧倒されるというほかありません.なお,やはり描き下ろしの「付録 股間巡礼」は木下氏の撮影された「股間若衆」を多く載せていますが,ここはややトーンが変わり,文体も気楽で,著者のすすめる「モデルコース」にじっさいに行ってみたくもなります(笑).