歌舞伎評論?

犬丸 治『「菅原伝授手習鑑」精読 歌舞伎と天皇』(岩波現代文庫岩波書店,2012年 4月)を読みました.「序章」の冒頭に「「歌舞伎と天皇」について、考えていこうと思う」とあるとおり,たんなる評論や解説とはちがうようです.「序章」では江戸時代の歌舞伎にあらわれた天皇の姿や,明治二十年の「天覧劇」のこと,昭和二十年までの軍国主義時代と戦後におけるあつかいかたの差などを考察されています.つづく「初段」から「五段目」までは,ストーリーにそくしつつ,作者の創作意図や登場人物の心情,さらには史実や先行作品との関係など,じつにさまざまなことがらを取りあげて論じています.目からウロコとおもわされるような見解がいろいろとあります.たとえば「二段目 道明寺の段」での道真の述懐について,「何気ないようで、聞き捨てならないのは「兵衛が工太郎が所為。立田の前ははかなき最後」と一部始終を道真は全て目撃していたのである」(p. 67)と指摘されています.わたくしは,えっ,そうだったの,と,おもわず口走ってしまいました.たしかに,「睡共なく暫時の間。物騒がしく聞へし故窺見れば」とのせりふからは,「全て目撃していた」とかんがえるほかありません.もっとも,犬丸氏も書いておられるとおり,「暫時の睡眠前後を知らず」という「明らかに矛盾した供述」(p. 68)もあるんですが・・・.この場面からあきらかになるのは,道真はなにもできず,なにもしない,ということです(ここに「天皇制」の秘密があるようです).犬丸氏はつぎのように書かれています.

天皇は、世俗から常に超然とした存在でなければならず、例えば道真流罪のような世俗に関わった場合でも、常にそれ自体は「無謬」であった。天皇と臣下(赤子)のピラミッドは、臣下が輔弼・奉仕し、天皇は「無謬」「無答責」の構図で成立し、それは天皇のみならず、あらゆる階層の主従・親子の「忠孝」として再生産された。道真もまたしかりであり、この館の騒動では常に局外者であり続ける「疑似天皇」なのである。(p. 68)

そして「某是へ来らずばかゝる歎も有まじ」という道真のことばについて,「私はこの言葉に、後段の「寺子屋」で全ての事が終わったあとの菅秀才の「我にかはると知ならば此悲しみはさすまいに。可愛の者や」との嘆きを重ねあわせる」(ibid.)とも書かれています.その部分を引くなら,つぎのとおりです.

この場面は、かつて久保田万太郎も「不快」と書いていたのを思い出す。秀才のために大の大人四人が血を吐くような労苦と悲嘆をした末に、こまっしゃくれて「どの面さげて」というのが現代人の感覚だろう。しかし、秀才という「童子」は、無垢な上に自ずと聖性を伴うものであり、その発する言葉によって、小太郎の魂は浄化される。同時に、無垢な童子というのは、そのまま天皇の持つ無謬性に通じる。秀才と松王・源蔵の関係は、天皇と臣民の縮図であり、それは主君と家臣、家長と家族、主人と奉公人、あらゆる上下関係に再生産されているのである。(pp. 170-171)

じつにあざやかな見解ですね.が,犬丸氏がもっともちからを込めている(らしい)のは,オビに「松王丸は八瀬童子だった!」とあるように,「牛飼舎人」である三兄弟の出自と源泉とにかんする考察です.三段目のいわゆる「賀の祝い」で(初代)吉右衛門が演じた松王丸の着付けにたいする疑問が「この本を書こうと思った動機」であったのだそうで,こうした観点からの読み解きを展開されています.その「読み解き」はたいそうおもしろく,諸資料を駆使しての論旨は明快なのですが,しかし,疑問も感じてしまいます.他の浄瑠璃や歌舞伎で「八瀬童子」を取りいれたものはあったのでしょうか.また,当時の見物はそうした事情をどれほど認識していたのでしょうか.犬丸氏は「当時の観客は梅王・松王・桜丸に当然八瀬童子の姿を重ねたに違いない」(p. 129)と書かれていますけど,現代にいたるまでの劇評などで「八瀬童子」との関連に注意を向けたものがあったのでしょうか.意地の悪いいいかたになりますが,これらのことを実証しないと,これまでだれもいわなかった<斬新な見解>を提示した,というだけの,自己満足的な論考になってしまうのではないでしょうか.
<斬新な見解>を表明したがることに対する批判については,http://www33.ocn.ne.jp/~hidekazu/page114.htmlを参照してください.