入門書? 研究書?

橋本 治『浄瑠璃を読もう』(新潮社,2012年 7月)を読みました.「あとがき」に

なんでまた義太夫節浄瑠璃かと言えば、近代になって成立する小説の先祖が江戸時代の人形浄瑠璃劇だと私が思っていて、今でも好きな人は好きではあるけれど、多くの人にとっては「遠いもの」になってしまっているのを、少しはなんとかしたいなと思った結果ですが、私の悪い癖であまり「分かりやすい本」にはなっていません。(p. 442)

とあります.ここに書かれているように,浄瑠璃への案内ではあるのですが,あらすじの紹介や作品の解説だけではなく,個々の作品がどのようにしてできあがったのか,作者はそこになにを込めたのか,見物はどういう受けとめかたをしたのか,といった面への考察がおおく見られます.といっても,これがけっこうやっかいで,浄瑠璃とは現代のわたくしたちがテレビの大河ドラマを見るようなものではなかったらしいんですね.史実をそのままに描いた「時代劇」を鑑賞するというより,江戸のひとびとは「過去」をじぶんたちの側へ引きよせていたようなのです.作る側も,政道への批判は禁じられていたので,おもてむきは体制を讃美しつつ,ウラに別の意味を込めるとか,特定の人物にある種特異な役割を振りあてるとか,なかなかに面倒なところがあり,そのために現代人にはわかりにくいものになってしまっています.筋が複雑で,文章もかなりむずかしく,登場人物の心理や行動にも理解しづらいところがあります.が,そうした作品群を橋本氏は入念に分析し考察して,浄瑠璃の魅力をさぐりだそうとされています.取りあげているのは『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする8作品.それぞれの内容や特色を縦横に論じています.ただし,橋本氏独自の観点と問題意識とややしつこい文体のため,わかりやすいとはいえません.入門書としては高度にすぎ,研究論文というには恣意的にすぎる,と,(失礼ながら)申しあげておきます.浄瑠璃および江戸文化にたいする橋本氏の「談義」とでもいったらいいでしょうか.「?」とおもわされるところがあるいっぽう,教えられるところも多々あります.わたくしがおもしろく読んだ点をいくつか引いておきます.

人形浄瑠璃に「お姫様」が登場すると、彼女の仕事は「恋をすること」になってしまうのが通り相場だが、この苅屋姫も同じである。十五、六歳の苅屋姫は積極的で、斎世親王にずっとラブレターを送り続けていたのである――なにしろ道真は書の名手だから、≪文は。父御のお家がら。≫と、道真はともかく、浄瑠璃作者や苅屋姫の周辺は決めつけている。(p. 158)

シンデレラの梅が枝は、自分が舞踏会に行く代わり、王子様の梶原源太を晴れの戦場に行かせたい。姑の延寿は「魔法使いのおばあさん」で、「ビビデバビデブー」と小判をばらまく。梅が枝は喜んで、その金を持って鎧を質屋から取り戻し、梶原源太は名誉回復の戦場に行き、姉のお筆のしつこい敵討要求に対しては、延寿が「私がその敵になるから、私に免じて許してね」で死んでしまって、めでたしめでたしになる。つまるところ、「そうして恋人同士は仕合わせになりました」が『ひらかな盛衰記』なのである。(p. 312)

藤原淡海は、奈良時代になって活躍する鎌足の息子藤原不比等のことだが、大化の改新の時代にまだ彼は生まれてなんかいない。そういう人物を平気で活躍させてしまうのも人形浄瑠璃のドラマで、それはそれでかまわないようなものだが、『妹背山婦女庭訓』での彼の役回りは、「女あしらいのうまいイケメン」である。(p. 388)