懇切な案内書

中野京子『名画と読む イエス・キリストの物語』(大和書房,二〇一二年九月)読了.「あとがき」に「本書は宗教の本ではありません。[中略]ではいったいなぜイエスの生涯を物語るのか、と問われれば、それは絵画鑑賞のためです(p. 210)」とあります.西洋絵画(とくに宗教画)を見るためにはキリスト教の知識が不可欠であることは既にさんざんいわれています.が,シロートがいきなり聖書に取り組んだところで,福音書の記述には齟齬や矛盾があり,イエスをはじめとするひとびとの言動にも謎めいたところがあって,じつはなにを意味しているのか,よくわかりません.絵画の背景や諸事情を解説した書籍もいろいろと出てはいるのですけど,わるいいいかたをするなら,豆知識をあたえる,といった程度のものが多いようです.中野氏の新著はたんなる豆知識ではなく,広い視野と歴史的な観点から,イエスとその周辺を総合的に描きだしています.「はじめに」でパレスティナの風土と当時の政治的な状況を語り,そのうえで,イエスの誕生から処刑,復活までを13の章にわけて記していますが,ひとびとの心理の内側にも(ときには小説家的なイマジネーションをもって)入りこんでいこうとする部分があるのが,ユニークです.そうした例をひとつあげておきます.

ユダは勝ち誇ったような表情で、まっすぐイエスに近寄り、「ラビ」と呼びかけ、抱擁、接吻した。束の間、イエスとユダの視線は交差した。ユダはイエスの目の奥に何を見たろうか。裏切り行為を見透かされていたことは、最後の晩餐の際すでにもう気づいている。だからこの時ユダが見たのは、彼が想像だにしなかったものではなかったか。怒りや軽蔑なら理解できる。だがイエスの目に浮かんでいたのは、ユダの理解をはるかに超えていた。それは許しであった。裏切り者の自分をイエスは許し、憐れんでいる。ユダは愕然とした。(p. 159)

ほかにも,こまかいところに案外おもしろい記述があり,天使ガブリエルがヨセフのもとへあらわれたときのことを,「これは全く画家のイマジネーションを刺激しないらしく、名画には皆無(p. 23)」とあるのには,笑ってしまいました.なお,十字架上のイエスが叫んだ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(=わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし)」について,「この先、世界中のクリスチャンや研究者たちを悩ませ続ける、解釈の難しい言葉だ(p. 196)」とされていますけど,ここはもう少しくわしく書いておいてほしかったと,おもいます.というのは,これは詩篇第22篇冒頭の詞章で,内容的には神の讃美におわるのだから,神に見放された嘆きや恨みととるのはまちがいだ,という説を何かで読んだおぼえがあるからです.もっとも,これがキリスト教神学での標準的な解釈であるのかどうか,わたくしにはわかりません.また,この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を文字通り神に見棄てられた悲痛の叫びとする考えもある(あった)らしく,ベルイマンの「冬の光」で,登場人物のひとりがそんなふうに語るシーンがあったのをおぼえています.