文庫版『怖い絵』第二弾

中野京子『怖い絵 死と乙女篇』(角川文庫,平成二十四年八月)を読みました.親本とは配列にちがいがあり,書きおろし2編が加えられています.カバーに大きく描かれているレーピンの「皇女ソフィア」の顔がこわいですね.これを冒頭においてソフィアとその異母弟であるピョートル一世との権力争いのすさまじさを詳述したあと,つぎにくるのはボッティチェリの優雅な「ヴィーナスの誕生」ですが,こちらでは「ヴィーナスの誕生秘話」をつづっています.が,「怖い」というキーワードにさほど拘泥することもないでしょう.絵を見ることと探求することについて,その自由度を上げ,領域を拡大し,さまざまな視角のあることを実証した点にこそ,中野氏の「怖い絵シリーズ」の真価がある(とおもわれる)からです.「怖い」だけでなく「おもしろい」とか「ヘンな」とか「意外な」といった要素を見出すことができます.ボッティチェリにつづいては同じタイトルながらおもむきのちがうカバネルの作をとりあげて,

強烈なエロスの放射に目が眩む。/この裸体はルーベンスルノワールのぼっちゃり型とも、クラナッハのなよなよ型とも、ミケラジェロの筋肉型とも全然違い、時代のヴェールを突き抜けて現代に直結しているからだ。(p. 30)

と書かれていますけど,この章ではむしろ西洋絵画における裸体と体毛の描写(と,その受容)にかんする話が,おもしろかったですね.各時代の嗜好や通念にたいする歴史的な関心がつよいのも,中野氏の個性(というか,独自の感性)といっていいでしょう.ホガースの「ジン横丁」で当時の世相を記述したのにつづけて,ゲインズバラの「アンドリューズ夫妻」の優雅な雰囲気の背後にある社会情勢を記し,「ホガースの絵とゲインズバラの絵の制作年がほぼ同年というのは、実に衝撃的に感じられる(p. 231)」としているのも,絵の背後の,ふつうは関心をはらわないであろう関係への目配りから生じたユニークな「視角」ゆえの見解ではないかと,おもいます.なお,無責任な読者の勝手な言いぐさですけど,カバネルの「ヴィーナスの誕生」のつぎに,フュースリの「夢魔」をもってきてもよかったのではないかと,かんがえてしまいました.女ののけぞる姿勢が共通しているからです.手の位置などのちがいはありますけど,本書を読み進んださい,「作品 12 フュースリ『夢魔』」の図像を見たときに,わたくしが「作品 3 カバネル『ヴィーナスの誕生』」をおもいだしたのは事実です.こんな連想も,美術書を読むときのたのしみとしていいのではないかと,おもっています.