昭和芸能史への一証言

山田庄一『上方芸能 今昔がたり 昭和の舞台覚え書き』(岩波書店,2013年 3月)を読みました.山田氏は「1925年大阪生まれ.[・・・]1947年京都帝国大学医学部薬学科卒.岐阜薬科大学助教授,毎日新聞記者を経て,1966年国立劇場の開場にあたり創立メンバーとなり,主として文楽公演の制作を担当する」という経歴をお持ちだそうです.米寿をむかえるにあたって,おのれの半生をふりかえり,たずさわってきた仕事やかかわったひとたちとの交流を,「私自身も古い大阪の風情や、長年見続けてきた歌舞伎、文楽など数々の芸能の記憶を、何とか伝えておきたいとは思う」(p. v)という意識から,記しています.歌舞伎・文楽の舞台裏のことなど,いまとなっては貴重なはなしがいっぱいに詰まっていますけど,わたくしが興味深く読んだのは著者の幼少時代のことを記した「第一章」です.実家である水落家は享保十四年(一七二九)に没した初代いらい「大阪のド真ン中」で呉服問屋をいとなんできた豪商で,「全くの“女系家族“」という家系のためか,「無類の芝居好き」であったとのこと.芝居関係者とのつきあいもおおく,著者が国立劇場に勤務することになるのも生まれおちたときから定められていたのかもしれません.「情緒漂う年中行事」と題する項で10ページあまりにわたって記された行事のありさまと飾りつけと料理の詳細には,そしてそれらをくりひろげる著者の記憶力には,まったくおどろかされます.かんじんの歌舞伎・文楽にかんすることは,膨大すぎてとうてい紹介しきれませんけど,ウラバナシに属するはなしがおもしろいですね.ひとつだけ引いておきます.昭和四十七年五月に国立劇場で「菅原」の全段通しをおこなったときのことです.

大幅にカットしても上演時間が長く、昼十二時、夜五時というそれまでの開演時間を、とくに昼を十一時に早めたものの追いつかず、各場の休憩は五−十分、昼夜の入れ替えもやっと十五−二十分、それでも終演は夜の十一時に近くなった。幸い、珍しい場が見られるというので客の入りは上々だったが、表の劇場係と裏の、とくに人形部からはこっぴどく叱られた。太夫、三味線は自分の持ち場だけだからいいが、人形遣いは役のほかに左や足へ回らねばならぬから、これでは飯を食べる間もない、というのである。誠にもっともな話なので、早速手配をして人形部だけ毎日弁当を配ることで、何とか勘弁してもらった。(p. 186)

近年,国立劇場での文楽公演にこうした熱意が見られなくなっている(ようにおもわれる)のが残念です.