概説書のように見えて,ポレミックな本なのかも・・・

倉田喜弘『文楽の歴史』(岩波現代文庫岩波書店,2013年 6月)読了.「はじめに」に「文楽に関する書物は数多く出版されているが、三業にわたる通史のような歴史書はない。太夫が語る浄瑠璃にこそ精度の高い文献は多いが、三味線や人形の歴史は多分に無視されてきた。史料が少ない上に、分からないことが多すぎるためでもある。そこで本書では、演繹や帰納、一口で言えば推測も交えて、可能な限り歴史の構築を試みた。(p. 1)」とあります.著者のそうした姿勢をしめすものとして,おなじ「はじめに」のなかに「浄瑠璃は、当初から三味線と一体だったと思われがちだが、それは違う。(p. 2)」との記述があり,人形の三人遣いについては,三大名作の時代においても一人遣いがおこなわれていた,と書かれています.さらに,人形浄瑠璃の栄枯盛衰にも関心がはらわれており,本文(第四章以下)では膨大な資料をもちいての検討をおこなっています.これらの論点のなかで,もっとも論議をよびそうなのが「三人遣い」にかんするところではないでしょうか.人形浄瑠璃の初期(近松の時代)には人形遣いが人形の裾から手をつっこんでひとりで遣っており,享保十九年(一七三四年)の「芦屋道満大内鑑」から三人遣いがはじまった,というのが通説なのですけど,倉田氏はこれを否定し,寛政十二年(一八〇〇年)の「壇浦兜軍記」「阿古屋琴責の段」が三人遣いのはじまりだと,主張されています.その根拠として,『戯場楽屋図会拾遺』の(三人で遣っているように見える)挿絵をあげ,「現在の大きな三人遣いの人形を、『楽屋図会』の絵のように、目よりも高く持ち上げることは可能であろうか。(p. 61)」として,一八世紀前半ごろの「三人遣い」を現在と同様のものとする通説を批判されています.なかなかにおもしろい見解ですね.わたくしはこれに感心すると同時に,疑問も感じてしまいました.というのは,初期の出遣い図などをもとに国立文楽劇場が「復元」した綟手摺について,勘十郎師が「これが非常に中途半端な高さなのです。といいますのは、人形遣いが立って遣うと、人間の顔が手摺の上に出てしまいます。人形の姿だけを見せようとすると、人形遣いは身体を手摺の下に深く沈めねばならず、かなりの強さの腹筋、背筋、足腰が必要となります。といって膝をつきますと、あまり動けなくなり、また人形を上に差し上げることも容易ではありません。この図からは辰松が立って遣ったのか座っていたのかは、はっきりしません。」(*)と語っておられるからです.つまり,図像資料はさほどあてにはできない,ということです.さらに,人形にかんするさまざまな工夫について,倉田氏は延享二年(一七四五年)の「夏祭浪花鑑」で「人形に帷子衣装を着せる」と書いているだけです(p. 57)が,このときに本泥・本水がつかわれた,との記録があるので,もし,「長町裏」の場で下帯ひとつのすがたとなった団七が義平次殺しのあと,くみあげた井戸水をあびて体の泥や血を洗いおとし,あらためて着物をまとって,祭礼のひとごみにまぎれて逃げていく,というさまを見せたのだとすれば,一人遣いの人形がそうしたアクションをしてみせるのは,かなりむずかしい,というよりほとんど不可能なのではないでしょうか.
太夫の語りについても,倉田氏独自の見解が出されます.「忠臣蔵」初演時に由良助を遣っていた吉田文三郎が太夫の語りに注文をつけたため,紛糾が生じてしまい,何人かの太夫が竹本座を退座して豊竹座にうつり,逆に豊竹座の太夫が竹本座に入座したために,両座の「風」が崩壊してしまった,という通説にたいし,洋楽の「バス」と「テナー」という用語を借りて,「文字で表すほどの相違を感じるものではなかったのではないか。(p. 52)」と書かれています.これは,わたくしも同感です.「風」はかなり微妙でむずかしい面があるようで,それゆえに専門家からはお叱りをうけるかもしれませんけど,シロートが(倉田氏にならって)勝手な比喩をつかわせてもらうなら,竹本座の「西風」というのはいわば西洋音楽短音階で,豊竹座の「東風」は長音階だと,おもうのです.<慣れ> はあるでしょうが,歌手が「わたしは短調の曲ばかり歌ってきたので,長調は歌えません」などということはないのではないでしょうか.
初期の人形浄瑠璃で三味線がどれほどの役割をはたしていたのかは,わかりません.講釈師が張扇で調子をとるような,ごく単調な音をときどき出していただけかもしれません.が,いつしか三味線独自の流麗な旋律が生みだされ,それを伝える「朱」が発明されたことで,人形浄瑠璃における三味線の役割と領域とが増大したであろうことは,たしかかと,おもわれます.そのさい,三味線音楽の発展は浄瑠璃(語り)と人形にも影響をあたえて,三業それぞれの深化と発展とに寄与したであろうことも,おなじくたしかかと,おもいます.そうした点にふれている文章をあげておきます.

こんにちの「サワリ」では、必ずといってもよいほど「後振り」がある。正面を向いて演技をしていた人形が、クルリと回って背中を見せ、体を左右にゆすって情感を表現する手法である。人間とは違って、人形ならではの美しい動きである。この後振りは、産字の技術がなければ生まれない。(p. 88)

「第四章」以降は文楽の栄枯盛衰の経緯をじつにゴチャゴチャと(といいたいくらいに)くわしく記しています.たいそうもりあがった時期があるかとおもうと,まるで客がはいらないときもあり,いくつもの座が競合するとき,素人浄瑠璃が盛んになるときなど,いろいろな局面があり,一口にはいいあらわせません.しいていうなら,統合と分裂の繰り返しがなされてきた,ということになるでしょうか.そうした事情のうち,明治時代の娘義太夫にふれていないのが残念です.が,これに関連して一箇所だけ,へーとおもわされる記述があったので引いておきます.

なお、大谷は文楽撤収を決めた直後、破天荒の舞台を出現させた。三十七年(一九六二年)四月のこと、本公演の舞台に女義太夫を登場させたのである。[中略]それは鶴沢清六の三回忌である。大谷は清六が好きであった。「風格のある撥さばき」で、「文楽の醍醐味を満喫させてくれる第一人者」だと位置付ける。追善公演では、男女の別なく薫陶を受けた者を舞台に上げようという企画を立てた。苦情があるものは休演すればよい、それほどの強い姿勢で臨んだ。(pp. 223-224)

松竹の会長さんも,やるときにはけっこうカゲキなことをやるんですね.ちょっと見直しました.
*大阪市立大学文学研究科「上方文化講座」企画委員会(編著)『上方文化講座 曾根崎心中』(和泉書院,二〇〇六年八月)p. 104.