住大夫師へのラブレター(?)

高遠弘美七世竹本住大夫 限りなき藝の道』(講談社,二〇一三年九月)を読みました.著者は1952年生まれのフランス文学者で,「失われた時を求めて」の個人全訳をめざしているそうです.そうしたひとが「そろそろ五十の声を聞く頃」にはじめて文楽に接して,以来,公演にかよい,文楽関連の書籍や芸談を読み,ことに住大夫師のおっかけファンといってもいいほどにのめりこんで,ついに,住大夫師の芸とひとについてまとめあげたのがこの本です.住大夫師の語る義太夫とはどういうものであるのか,どのようにしてそういう義太夫があらわれえたのか,何が観客を感動させるのか,といったことを綿密に考察しています.考察というより,住大夫師へのラブレターといったほうがいいようなおもむきさえあります.(なお,弘美氏は男性です).これまでにも名人といわれるひとはおおぜいいました.が,米寿をこえてなお現役で活躍しているのは空前絶後といってよく,このおどろくべき存在がいかにしてここにいたったのか,著者はたんねんにさぐっています.住大夫師のことだけでなく,人形浄瑠璃についての歴史的な記述や作品解説もありますけど,そうした流れのなかに住大夫師の芸とひとを位置づける著者の作業と熱意も,おどろくべきものというほかありません.もっとも,著者がくりかえし語っているのは,平凡といってもいいくらいのことで,「第八章」の章題を「基本に忠実に素直に」と題しているように,先人たちが伝えてきた義太夫節をただしく受けとめ,読み解き,表現することに尽きます.が,なかで住大夫師の生年が近代のモダンな大阪の発展時期とかさなっていること,住大夫師の軍歴がその芸に影響をあたえている(かもしれない)ことを指摘しているのが,著者の見解のユニークな点かと,おもわれます.「義理に突き動かされて、自分の感情を押し殺すおさん、そしていっときは義理に従おうとする小春は、名誉を重んじ個人の感情を抑えつけるフランス十七世紀の古典劇作家コルネイユの主人公たちの血縁だと言えます」(p. 144)という,いかにもフランス文学者らしい解説もあります.本書でくりひろげられる著者の主張や見解は,傾聴にあたいするのですけど,しかし,住大夫師の芸を称揚するあまり,義太夫節の領域と可能性を狭めてしまうのではないか,という危惧も感じてしまいました.数年前に某掲示板にカキコミしたことがあるのですが,むかしのひとは義太夫節を「股引」程度の卑近なものとして享受していたはずなのです.住大夫師による読み解きと表現が,至高の境地に達しているのはまぎれもない事実ですけど,その一方に庶民の娯楽として気楽に聞くことのできる「股引」程度の義太夫節がある(あってほしい)という意見も認めてほしいとおもうのですが・・・.